生きかた上手
「生きかた上手」日野原重明著
人はひよわいからこそ、寄り添って生きることができます。
悲しみの体験が、人をやさしくする
心に迫るコミュニケーションというものは、実行しようと思い立ったその日からできるものではありません。
人に体よく調子を合わせるテクニックではないからです。
すでに20世紀の初頭、ナイチンゲール(1820~1910)は看護婦の卵の学生たちに向かって、感性の必要性を説いています。
感性のあるなしがコミュニケーションの能力にかかわるからです。
「わが子を失うというような、あなたには経験のない悲しみにも共感できなければならない。その感性がないのなら、看護婦になるのはやめなさい」という意味のことばを語っています。
厳しいまでの助言です。
彼女は、感性はあくまでも遺伝的な資質であって、後天的に獲得しないと思っていたようですが、私は、人の素質も環境によって刺激され育ちうると信じています。
誰でも、感性が貧しいことはあってもゼロということはありえないのですから、磨けばよいのです。
ただ憂うべきは、いまほど感性を育てにくい時代もないだろうということです。
ぜいたくや便利さに慣れてしまうと、感性はどうしても鈍ります。
他人の痛みはどこまでも他人のもの。
ほんの一瞬で、次の瞬間には忘れてしまいます。
この世に生を受けたことを感謝する謙虚さなど、はたしてどこに置き忘れたのでしょう。
最も有効な、感性の教育があるとすれば、それは自らが苦しみ、涙する思いを味わうことに尽きます。
はやりのバーチャル・リアリティ(仮想現実)ではだめなのです。
生身の体験が多いほど、感性は育ちます。
大病の苦しみや近親者の死に幸いにしてそ遭遇していないのなら、せめて、努めて多くの人に接し、自分にはない経験を間近に見聞きすべきでしょう。
存分に想像力を働かせ、相手の心の内に飛び込む思いをもちながら。
機会があるなら幼い子どもを病人の見舞いや、通夜や葬儀に連れて行きなさい、と私が申し上げるのも、それが感性を育てる学習になりうるからです。
そうした経験のなかで、たとえば他人の心にふれることばをいかに紡ぎだし、どのような眼差しで、いかなるタイミングに発すべきかを、徐々に体得するのです。
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