生きかた上手
Ⅵ 死は終わりではない
なぜ人を殺してはいけないのか。その問いには答えるのではなく、共に考えるべきです。
いのちの重みを、子どもたちにいいかに伝えるか
一方、死の気配などみじんも感じさせない子どもたちの心のさまは、私にはもっお気がかりです。
「人を殺してはならない」「人を傷つけてはならない」と、この1年あまりのあいだ小学生、中学生たちは何度学校で聞かされたことでしょう。
10代の少年による、いのちをいのちと思わない凶行が立て続けに起きてからのことです。
「人を殺してはならない」という教えは、はるか古代から人々のあいだに伝えられ、すでに人間の自明の前提として了解しているつもりでいました。
それをいまあらためて、子どもたちに教え諭さなければならないというのは、世の中のどこかがひずんでいる証なのかもしれません。
それでも子供たちが「ああ、そうだそうだった」と我に返っていくのならまだいいのですが、どうも私には、彼らが大まじめに「なぜ、人を殺してはいけないのか」と無言の眼差しを返しているように感じられます。
子どもたちは、おそらく本当にわからないのです。子どもたちに説教を繰り返して、その文言をそっくり覚えさせたところで何になるでしょう。
頭でわかったとしても身をもってわからなければ、わかっていないのと変わりありません。
一人ひとりの血肉にならなければ、生涯にわたって意味をもちえないのです。
「わかる」と「わからない」のあいだに非常に大きなへだたりがあるということを、私たちは少し考えてみましょう。
なぜ人を殺してはいけないのか。その問いには答えるのではなく、共に考えるべきです。
自明だとは言っても、私たちおとなも、成長するうちにだんとわかってきたはずなのです。
その道のりがあったことをすっかりわすれてしまった人間が、いまだにわからない相手に向かって「人を殺してはいけないのは、わかりきっているじゃないか」と論したところで、相手にはわかるはずがありません。
子どもたちへの教育は、教師がひたすら「教え込む」よりも、むしろ「子どもが自分でわかるように手を貸す」というスタンスに多くの比重を移し変えるべきだと思います。
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