生きかた上手
Ⅵ 死は終わりではない
死がなんであるかを子どもに伝えるのは、おとなの役目です。
小学6年生に「いのち」の授業をする
一昨年、私は世田谷の和光小学校の小学校の6年生に「いのち」について1時間の授業をしました。
聴診器を20本用意して、子どもたちにお互いの心音を聴かせたところ、40人のにわか医師たちは、自分たちの心音と私の心音とではピッチや音程がちがうことまで指摘できるほど優秀で、教室は大いに盛り上がりました。
そこで私が、「鼓動は私たちが生きていることの、一つの証。この生かされているからだは土の器のようなもので、壊れたら、そのときが死ぬとき。齢をとった私の器はひびもあり欠けているから早く壊れるけれど、いずれきみたちもそうなるよ」と切り出すと、子どもたちは、「そうれじゃ、なんだか生きててもつまらない」と言います。
ひと渡り子どもたちの感想を聞いてから、「いのちとは器そのものではなく、器のなかの水であって、いかにきれいな水を満たすかが大事なんだ」と続けました。
すると、「いままでからだの仕組みや健康のことは何度も教わったけれど、いのちのことを聞いたのは、今日が初めてです」という子どももいれば、「いのちがなんだか、わかったような気がする」という子どももいる。
想像以上の理解力と感受性に、私のほうが驚かされました。
いのちが何であるかを、小学生がたかだか1時間で理解したとは思えませんが、いのちについて語りたい、なにか伝えたいという私の思いは伝わっただろうと思います。
わかろうがわかるまいが、いのちを考える、そのきっかけだけは、できるだけ早くから与えるべきなのです。
そうでなければ、子どもたちが初めに言ったように、生きていてもいずれ死ぬなら「つまらない」ということになりかねません。
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