生きかた上手
Ⅵ 死は終わりではない
死がなんであるかを子どもに伝えるのは、おとなの役目です。
子どもたちに「死の準備教育」を
10代の若い人たちによる悲しい事件がこの一年あまりのあいだに相次ぎました。
いのちを冷酷なまでに軽んじる青年が現れたのはなぜでしょう。
彼らは、人の生死をどうとらえていたのでしょうか。
思えば、私たちの日常は、死の存在など忘れてしまうほど、死の気配を感じません。
私が子どものころには、夏休みが明けてみると、同級生の一人二人あるいは幼い知り合いの子どもが病気や事故で亡くなっていることがよくありました。
玄関先に「忌」と書いた紙を貼り出した家をしばしば目にしました。
戦争ではそれこそ大勢の人が死んでいきました。
死とはいつも隣り合わせでした。
ところがいまでは、死はテレビや小説のなかにだけ存在するフィクションであるかのようです。
日本人のほとんどが病気で死ぬようになってから、よほどの近親者でもないかぎり、死の場面に遭遇することはありません。
いのちあるものにいずれ死が訪れることは頭でわかっていても、実感はない。
人の死によってもたらされる喪失感や心の痛み、その他諸々の感情に、ことに若い人たちは未知です。
これほど死が非日常化したことを見すごしていいはずがないと、私が不安を覚えてから20年になるでしょうか。
以来、「死を語る”死の準備教育”をこどもに」、と言い続けていますが、なかなか現実にはいたりません。
日本には、死を忌むべきものとする意識がいまだに根強いのです。
通夜や葬儀の後に塩で身を清めるしきたりも生きています。
死は不浄なもの、怖いもの、縁起のわるいもの。
未来ある子どもに、死を語ったり見せたりするのはとんでもないと、多くの人が思っています。
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