生きかた上手
「生きかた上手」日野原重明著
家族とは、「ある」ものではかくて、手をかけて「育む」ものです。
面倒でも手をかけなければ、家族は冷えきってしまう
3世代同居が圧倒的であったころに比べると、核家族の人間関係はきわめて簡素になっています。
一家庭当たりの子どもの数も年々減っている。
しかも、父親は仕事で不在がち。
両親不在もめずらしくない。
それぞれが自分の好みと都合でバラバラやに行動しています。
となれば、子どもたちはいったい、いつ、どこで、人としての生きかたやルールを学べるのでしょうか。
おとなとして、物理的なすれちがいに気づいていながら目をつぶって、子どもとの真剣なふれあいやぶつかりあいを避けています。
いま、家族のなかに見出せるのは、「自分」と、自分以外の「異物」という視点だけです。
親子のあいだ、兄弟間、夫婦間に共通の思いがない。
家族と呼ばれるだけで十分ではないか、自分と年齢も価値観も一切が異なる人間とのあいだに、わざわざ共通の思いをもとうなどと無理することはない、と各々が言い訳するようになっていないでしょうか。
「異物」だから関係がない。が、ときに邪魔になる。
不愉快だ、目障りだ。
だから、なにものとしたい。
そういう思いが高じたとき殺人も起こりうる。
目の前をちらちらと飛び回る蛾を目障りだと叩きつぶすように、人をあっさりあやめてしまう。
自分の気分と居心地だけを優先させる、きわめて自己中心的な未熟な人間がなんと多いことでしょう。
家族が単に「異物」の寄せ集めであっていいはずがありません。
互いのちがいを尊重しつつ、共通の思いをもう一度探るべきときです。
家族間のコミュニケーションを回復することなくして、世の中にぬくもりは回復しえない、とさえ思います。
手っ取り早い解決法などありません。
日々コツコツと積み重ねてゆく、そんな地道さを必要とするでしょう。
その習慣のなかで、自分以外の「他者」に心を寄せる感性が育つのだと思います。
他人の喜びや痛みに共感できる心の幅というか、度量が広がるのだろうと思います。
面倒だからと、人とのかかわりあいの一切から遠ざかっているかぎり、人としての成長は期待できません。
もちろん人とのふれあいのなかで心揺さぶられる感動を味わうこともできません。
それは、一度きりの人生において、きわめて重大な損失であるだろうと私は思います。
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