生きかた上手
Ⅵ 死は終わりではない
人には人にふさわしい終末が約束されるべきです。
きちんと別れることができれば、死もまたやさしい
延命措置のために家族が追い出され、ようやく招き入れられたかと思えば、「何時何分、ご臨終です」と医師が告げる。
動かなくなった死体に家族が取りすがって泣く。
それはあまりにも痛ましい光景です。
大勢の患者さんを看取ってきてわかったことは、少なくとも患者さんの心臓がかすかながら打っているうちにしっかりとお別れができれば、家族は肉親の死を穏やかに受け入れることができるということです。
そこに訪れた死は、なんとやさしいことかと思えることさえあります。
臨終は大切な別れの儀式なのです。
湿らせたガーゼで唇を拭ってあげながら、家族の一人ひとりがお別れのことばをかけてゆく。
「おじいちゃん、ありがとう」と、孫が大きな声で耳元で呼びかける。
あるいは「お母さん、聞こえた?」と息子が手を握れば、ぐっと握り返されたように感じる。
患者さんは、開ける力もない、声も出せない。
けれど耳は聞こえていますし、手を握られれば反射的にかすかにつかみ返す力が残っています。
式だった音楽を耳元で流してあげれば、旅立つ人には慰めになるでしょう。
私も臨終のときにはフォーレ(1845~1924)のレクイエムを流してほしいとリクエストしています。
肉親が息を引き取る瞬間まで、家族一人ひとりのお別れが繰り返されます。
ひと巡りして、ふた巡りして、と別れの儀式は続くのです。
そのようにしっかりお別れをすると、まるで遠くのへ旅立つ人を駅で見送るように、いよいよ列車がホームをはなれていくときにはさみしく切ないけれど、悲痛ということはありません。
もう十分に見送ったな、という気持ちに満たされて、いよいよ訪れた死の瞬間にわっと泣いて取り乱すようなことがありません。
「これお別れのときになりました。でもみなさん、お別れができてよかったですね」ということばが私の口から自然にこぼれるのです。
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