生きかた上手
Ⅵ 死は終わりではない
「ありがとう」のことばで人生をしめくくりたいものです。
悔いのない死をつくる
リンゴに芯があるように、私たちは生まれながらに「死の種」を宿しています。
詩人リルケ(1875~1926)はそう言いました。
遺伝子に老化のプログラムが刻まれ、死ぬ日が予告されているのです。
死は生の一部であり、必然であり、どうにも逃れることはできません。
この世に生まれた瞬間が、私たちのし死への第一歩なのです。
にもかかわらず、私たちはこのかぎりあるいのちを顧みるどころか気にも留めません。
死は私にかぎっては無縁だと、たかをくくっている人が多いものです。
やがて老い、一つ二つと病が増えるころになってようやく、人は命に限りがあることを自覚します。
「病を得る」とはよく言ったもので、健康を失って初めて、生と死を深く考えるときを得ます。
その意味においては、老いもまたありがたいと言えそうですが、老いてからでは遅いのです。
青年、壮年、老年の、いついかなるときも、私たちは死に備えていなければなりません。
死に備えるとは、つねにまず死を想い、死からさかのぼって、今日一日をこれでいいかと問いながら生きることです。
死は跫をしのばせて突然訪れるかもしれないのです。
先にも述べた39歳でがんのため亡くなった女性は、兵庫県の西宮に住まいがありました。
ご主人は奥さんが聖路加国際病院に入院したのを機に上京して、ずっと奥さんの病床に付き添っていました。
入院がひと月にもなるころ、会社を休んだままでは大事なポストがなくなるのではないかと、私は他人事ながら気になって、思いきってたずねてみました。
すると、ご主人は、「会社には、いつまで休むかわからないと言ってあります。会社のために徹夜し休日を返上することは、これから先いくらでもできますが、彼女のそばにいることは、いましかできないのです」と、事もなげに言いました。
今日一日をどう生きるかは、残り時間の少ない死にゆく人にとっては切実です。
けれど、本当のところは、死が遠い近いにかかわらず、誰もがつねに、同じ重大さをもって、同じ問いを投げかけられているのです。
だからこそ、寿命から逆算して減ってゆく人生の残り時間を惜しみ怯えるのではなく、また新たな一日をもらったと感謝の思いで臨みたいものです。
そうであれば、いきいきと、潔く、今日という日を生きられるような気がします。