『Live Happy』『スライト・エッジ』習慣を身に着けよう!

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第11章 スライト・エッジをマスターしよう P270

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『葬式から学んだこと』
前にも話したけれど、テキサス・インスツルメンツ社に勤めていたとき、僕はマネジメントの分野で自分の地位を築いていこうと思っていた。だが、人生は僕に別のプランを用意していた。
ある日出社すると、僕は営業にまわされていた。愕然とした。営業訪問なんて自分にできるわけがない、何もできずに惨めに失敗するだけだと思った。
僕が抱いた感情は訪問先で拒絶されるのではないかという不安ではなく、拒絶されることに対する絶望的なまでの恐怖心だった。
こんな仕事は今すぐ辞めて、尻尾を巻いて大学院に戻るしかないという考えが頭をよぎった。
しかし、僕はこのころすでに「成功する人たちは成功しない人たちがやりたがらないことをするものだ」ということを知っていた。
壁にぶち当たった僕には、やるしかなかった。そのことが分かっていた。
そして最初の訪問先を決めるために顧客ファイルを隅から隅まで調べ上げると、1番小さくて1番重要でない顧客を見つけ出した。
それはフロリダ州ゲインズビルにあるちっぽけなドラッグストアだった。どうせヘマをするのなら、被害はできるだけ最小限に止めたほうがいいと考えたからだ。
車で2時間半かけてその店に到着したとき、僕は恐怖のあまり冷や汗をかいていた。駐車場に留めた車の中で、滝のような汗を流しながら(エアコンを全開にした)冷房の吹き出し口のほうに顔を傾けてたっぷり30分ほど座っていた。
恐ろしかった。
あのときの僕にとって1番簡単だったのは、そのまま車の中にとどまっていることだっただろう。
そのときはまだ、スライト・エッジの哲学を明確に言葉にできるほど理解していたわけではなかった。けれどもそんなことをすれば、その小さな過ちは時間とともに積み重なって自分の夢をすべて奪ってしまうだろうということが、僕にはある程度分かっていた。
この最初の営業訪問に出かける準備をしていたとき、僕は助けを求めて文字通り祈っていた。心の底から問いかけるときにはよくあることだが、答えが返ってきた。
このときは、訪問の前日か前々日にたまたま読んだ雑誌の記事だった。
平均的な葬式では泣く人は10人くらいだとその記事に書いてあった。
僕には信じられなかった。
その段落を読み返し、自分の勘違いではないことを確かめた。
「たったの10人?多くの試練と苦悩に耐え功績や喜びや悲しみを重ねて長い年月を生き抜いてきたのに、その最後に葬式に来て泣いてくれる人は世界にたった10人しかいないって?」
続いて次の段落を読むと、事態はさらに深刻だった。
その10人(あるいはそれ以下)がハンカチを引っ張り出して鼻をかみ、葬式が終わると、そのあとの埋葬の参列する人の数を決める第1の要素はなんと天候だというではないか。
天候だって?
そうなのだ。「もし雨が降っていれば」とその記事の著者は書いている。「葬式に出席した人々の50%は埋葬に参列するのをやめて、さっさと家に帰ってしまうだろう」これはどうしても信じられないと僕は思った。
「つまりこういうことか?僕が死んで横たわり、それまで僕が言ったことしたことすべてが、人生と呼ばれるもののすべてが、大切な幕切れを迎えている。僕にとって最も身近で大切な人たち、僕が最も深くその人生に触れた人たちによって、僕の全存在が問われ、認識され、記憶に刻まれる最後のときだというのに、集まった人たちの半分は雨が降り始めたからという理由で途中で帰ってしまうというのか?」
僕は心からがっかりした。
最初に読んだときには。
だが、ゲインズビルの小さなドラッグストアの外に停めた車の中に座っていた僕は、むしろ晴れ晴れとした気分になった。
「そうだよ」と僕は考えた。「誰にどういわれようと、もう構うもんか。みんなが僕の葬式で泣いてくれるかどうかさえ怪しいものだし、雨が降れば僕が埋められる前にとっとと帰ってしまう可能性だって半分はある。それなら相手にどう思われるかを心配してこんなふうにぐずぐずしていたって、一体何になるんだ?」
拒絶されることを恐れるるのはなぜだろう?
1度や2度門前払いを食らったっていいじゃないか。大多数がどう思おうが気にしなければいいじゃないか。95%の人々が何を言おうが何を思おうがどう行動しようが、全然かまわないじゃないか。
自分自身の死についての真実に直面すると、自分の人生についての重要な真実にも向き合えるようになる。
あの葬式の記事は僕の快適領域を拡大し、勇気という強み(エッジ)を与えてくれた。
ほんの小さな強みだが。それ以前の僕にはなかったものだ。
まさにわずかな違い(スライト・エッジ)だ。
僕はようやく持てる限りの勇気を奮い起こしてエンジンを切ると、店の中に入った。このとき僕がやったプレゼンは、営業史上最悪のプレゼンだったと今でも確信している。
何1つ買ってはもらえなかった。その意味で言えば完全な失敗だった。しかし車に戻った僕は意気揚々としていた。
営業訪問を決行し、人生における勝利を収めたからだ。
その2、3日後、ふと例の記事についてもう1度考えた。
そのときも僕は車の運転席に座っていたのだが、今度は渋滞で停車中のことだった。そしてその窓の外に目をやると、停車させられた理由が分かった。
なんと葬列が通り過ぎていくところだったのだ。しかも葬列の車が少なかったので、通り過ぎるのに1分とかからなかった。
停車していた車の列が再びゆっくりと動き出すと、僕は先ほどの霊柩車の中で横たわったいる人のことを考えた。
その人は他人の迷惑を気にかけながら一生を過ごしたのだろうか?
そして僕ははっと気がついた。
葬列が長いのは誰の葬式だろう?
何千人もの人々が涙を流すのは誰の葬式だろう?
数百万人が悼むのは誰の死だろう?
それは他の人々がやりたがらないことをやろうとする人たち、その人のために銅像が建立されるような人たちだ。
偉大な葬式が催され、大群衆ばかりか国中が哀悼するのは、他人の思惑などおかまいなしに自分の人生を生きた人たちなのである。
それぞまさに波及効果だ。
習得とはまさにこういうことなのだ。